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板橋区の歴史
原始・古代
武蔵野台地に人類の生活が始まったのは、約3万年前、この台地の東北端に位置する板橋地方は、石神井川流域や荒川谷の支谷にこの時代の遺跡が多く点在してます。
その中でも茂呂遺跡は旧石器時代を代表する遺跡の一つといわれ、約1万7千年前にさかのぼるといわれます。
そして8千年前には土器文化をもった縄文時代が始まり、3世紀前後に始まった稲作文化として知られる弥生時代から古墳時代の生活が伝わる白子谷、前谷津谷、出井谷などに展開しました
。中央集権国家が誕生する奈良・平安時代でも板橋地方の人々は竪穴住居に住み、稲作を中心とした生活をおくっていたようです。
中世
1180年、源氏旗揚げの際、頼朝、義経が戸宇久を通過したことが、「義経記」に記載されてます、徳丸・赤塚方面にはこの時代を象徴する立派な仏像も残されており、鎌倉時代から室町時代にかけてこの地方の主権者として威を振るったのは豊島氏、その繁栄は1477年に豊島氏が長尾景春の反乱に加担、上杉家の家臣、太田道灌から石神井川城・平家城を落とされる時まで続きました。
近世
徳川氏が覇権を握り、1604年に江戸幕府は街道を整備、一里塚や宿場を設けて交通の便をはかりました。これにより現在の板橋区には平尾・志村の両一里塚が構造され、板橋宿が設けられました。板橋宿は、江戸4宿のひとつとして、江戸へ入る最後の宿場、江戸を出る初めての宿場でもある為、1635年、諸大名の参勤交代も手伝って、かつてない繁栄を見せたようです。
明治・昭和
明治維新後、板橋は武蔵県所属となりましたが、1869年、大宮県へ、さらに浦和県へと、転属され、1871年、東京府の区域拡張が行われ、初めて東京府に編入となりました。
その後北豊島郡が誕生し、下板橋宿に郡役所が設けられて、行政の中心となりました。
しかし、上野〜熊谷間の鉄道の開通や、大火による板橋宿の消失により、板橋宿は衰退の道を余儀なくされます。
1887年山手線が開通、板橋駅も開業、そして東上鉄道が開通すると、上板橋、赤羽方面がひらける基となり、昭和7年東京市に編入、はれて板橋区の誕生となりました。
板橋区の工業化の基盤となった陸軍造幣廠、板橋火薬製造所等の工場は、軍国日本と共に歩み、やがて工都として一躍時代の脚光を浴びるようになります。世界を恐れさせた工業日本の縮図でもありました。土地入手の容易な点、舟運の利便性、などから危険物を取り扱う軍事工場や爆発性の化学品の製造工場設置に好適の地形と条件を提供していくようになります。
戦後
地方制度の改革による特別区の誕生から区長の公選、地方自治法の制定、区議会議員の公選と、戦後の地方自治の出発点となった年には、総面積の約60%にあたる区南部が練馬区として分離独立し、埼玉県戸田町の一部約0.2平方キロメートルが当区に編入され舟渡4丁目が誕生。戦中の軍需中心の板橋区の工業は終戦を境に、近代産業興隆として飛躍します
。都内最大の高層住宅団地「高島平団地」が完成。この高島平と巣鴨間を結ぶ都営地下鉄6号が開通その後、都営地下鉄三田線に改称され、西高島平と三田を結ぶ一大動脈となり、本格的な板橋区の住宅化が進みました。
(板橋区資料提供)


